
豊臣秀吉が大名ではない武士を集めた町
天正15年(1587)、豊臣秀吉が聚楽第を造営した際、内野の一帯に大名ではない武士たちを集めて住まわせたとされる。その町は六軒町通と仁和寺街道を中心に七つのブロックに分けられ、一番から七番まで番号が付けられた。これが現在の一番町、二番町、三番町、四番町、五番町、六番町、七番町につながっている。現在の落ち着いた町並みからは想像しにくいけれど、かつてこの周辺には五番町遊廓があり、京都を代表する歓楽街のひとつとして知られていた。京都市上京区の資料でも、現在の五番町、一番町、四番町、利生町の一部に遊廓があり、それらを総称して五番町と呼んでいたと説明されている。




享保年間には北野天満宮や愛宕山への参詣客を相手にする茶屋が見られるようになり、その後、西陣の織工たちの遊興の場としても発展した。昭和初期には芸妓がいる花街としての顔もあり、映画館なども集まって大いににぎわったという。
機織りの音が響く西陣と、夜のにぎわいを見せる五番町。仁和寺街道周辺には、京都の「働く町」と「遊ぶ町」が隣り合っていた時代があった。







仁和寺街道を西へ歩けば御室桜の仁和寺へつながる
仁和寺街道の名前を聞いて、やはり外せないのが仁和寺。通りの西側へ目を向ければ、世界遺産・仁和寺と、京都を代表する遅咲きの桜「御室桜」へとつながっていく。
仁和寺の御室桜は、里桜を中心に約200本が植えられている。背丈が低く、根元から枝を広げて咲く独特の姿から「お多福桜」の愛称でも親しまれている。京都市公式の案内では、満開は4月20日頃とされ、古くから「遅咲きの桜」として知られてきた。かつては高貴な人々だけに許されていた観桜も、宝暦7年(1757)頃には門前の住民のために花見の茶店が認められ、庶民も桜を楽しめるようになった。
美しい桜の景色の裏側には、桜を守り、次の世代へつなぐ人たちの仕事がある。
その代表として知られるのが、庭師の名跡「佐野藤右衛門」。植藤の当主が代々受け継いできた名前で、天保3年(1832)から仁和寺御室御所の造園を担ってきた家系だ。第14代以降、日本各地の桜の調査や保存活動を続け、「桜守」として知られるようになった。特に知られているのが十六代佐野藤右衛門。仁和寺の桜をはじめ全国の名桜を守り、京都迎賓館などの庭園も手がけた造園家だった。2025年10月31日に97歳で亡くなったが、その活動は桜を「花が咲いたときだけ楽しむもの」ではなく、長い時間をかけて命を受け継ぐものとして考えるきっかけを残した。仁和寺街道を歩いた先で御室桜を見るなら、花の美しさだけでなく、その一本一本を守ってきた人たちの存在にも目を向けたい。